津田梅子のお墓はどこ?
所在地 | 津田塾大学の構内 |
住所 | 東京都小平市津田町2-21-17 |
津田梅子のお墓は、東京都小平市の津田塾大学構内に存在します。
津田梅子は、遺言で「自分のお墓は小平の新校地に」と遺していましたが、当初、校地内にお墓を作るのは難しいとされ、青山に仮埋葬されました。
その後、東京都の許可を得て、小平キャンパスの北東に墓地が作られ、1932年に改葬式がおこなわれています。
津田梅子ってどんな人?
出身地 | 東京都新宿区南町 |
生年月日 | 1864年12月31日 |
命日 | 1929年8月16日 |
享年 | 64歳 |
戒名 | 不明 |
津田梅子は、明治時代の教育家で、女子専門教育の先駆者と呼ばれる人物です。
農学者である津田仙の二女に生まれた津田梅子は、6歳の頃、日本で初めての女子留学生としてアメリカに行っています。
その後、女性の地位向上と日本の発展の関係性を信じた津田梅子は、女子英学塾(現:津田塾大学)を開講しました。
生涯を通じて、女性の高等教育のために尽くした津田梅子は、令和6年に発行された日本銀行券の五千円札の顔に選ばれています。
津田梅子の死因・最期
津田梅子は1929年8月16日に鎌倉の別荘で亡くなりました。
津田梅子が糖尿病と診断され体調を崩したのは1917年、52歳の頃からです。
2ヶ月程度の入院生活を経て一度は退院しましたが、彼女はその後も、頻繁に入退院を繰り返す日々を送ります。
3度目の入院を迎え、津田梅子は「このまま津田塾大学の塾長を続けることは難しい」と考え、1919年に議長としての活動を終えます。
その後、津田梅子は4度目の入院生活を送っていましたが、同年10月に現在の東京都品川区御殿山の近郊に移り住み、以後10年間この地で生活を続けました。
その後、1929年7月に鎌倉の別荘に移り住んだ津田梅子は、同年8月16日、脳出血によって生涯を終えます。没年64歳のことでした。
津田梅子の葬儀
津田梅子の遺体は、翌18日に桐ヶ谷で荼毘に付され、葬儀は東京市麹町区の女子英学塾講堂で執り行われました。
葬儀では、新渡戸稲造や津田塾大学二代目塾長の星野あいなどが弔辞を述べ、約1,000人の参列者が津田梅子の死を悼みました。
また、葬儀の際には、昭和天皇と皇后より祭祀金一封が下賜されています。
- 津田梅子の墓は、東京都小平市の津田塾大学構内にある
- 津田梅子は女性高等教育に生涯を尽くした明治時代の教育者
- 1917年から入退院を繰り返し長い闘病生活を過ごす
- 1929年、鎌倉の別荘で64年の生涯を終えた