吉田松陰は、松下村塾を創設したことで広く知られる人物。
幕末の志士、教育者として知られており、日本のために尽くした歴史に残る1人です。
現在でも吉田松陰の思考や行動に影響を受けた人は多く、歴史や教育に関わる人など、さまざまな人がお墓に訪れています。
この記事では、吉田松陰のお墓の場所・住所・行き方を紹介します。
吉田松陰のお墓はどこ?
所在地 | 松陰神社 |
住所 | 山口県萩市大字椿東 / 東京都世田谷区若林4-35 |
吉田松陰のお墓は、山口県萩市と東京都世田谷区の2か所にあります。
山口県萩市は、吉田松陰の出身地として知られており、吉田稔麿や高杉晋作などのお墓が集積している場所です。
「吉田松陰のお墓を守る会」が存在し、同会に所属する人たちの努力により、境内はキレイに保たれています。
JR東萩駅から徒歩約20分で行ける位置にあり、吉田松陰の歴史や生涯を肌で感じられる場所です。
一方で、世田谷区にある松陰神社は、東急世田谷線の松陰神社前駅から徒歩3分の場所にあります。
処刑された後に、松下村塾の門下生であった高杉晋作や伊藤博文によって改葬されました。
神社の境内には、子弟を教育していたとされる、8畳1間の松下村塾が自由に見学できます。
「松下村塾が日本の歴史を大きく変えたきっかけとなる場所」といっても過言ではありません。
吉田松陰ってどんな人?
出身地 | 長州萩城下松本村(現在の山口県萩市) |
生年月日 | 文政13年8月4日(1830年9月20日) |
命日 | 安政6年10月27日(1859年11月21日) |
享年 | 29歳 |
戒名 | 不明 |
吉田松陰は、幼い頃から父親のスパルタ教育を受け、9歳で日本三大学府の1つでもある「藩校・明倫館」の兵学師範に就任。
2年後の11歳で藩主・毛利敬親に兵学講義をするなど、その才覚は周囲を驚かせました。
22歳になると、日本の将来に不安を抱いた吉田松陰は「今の日本の状態を把握したい」という思いから、宮部鼎蔵らと東北旅行へ。
吉田松陰は旅行中、3年で13,000kmも歩いたといわれています。
24歳になった吉田松陰は、下田に黒船が来航したと聞き「外国を自分の目で見てみたい」という理由から、ペリーの黒船に乗り込もうと決意。
周囲は必死に止めるも、吉田松陰の気持ちは変わりません。
好奇心旺盛な性格だったため、大罪であることを理解しながらも、欲には勝てなかったのです。
弟子の金子庄之助とともに、黒船に乗り込むことに成功。
船員に「アメリカに連れて行ってほしい」と頼みましたが、願いは叶いませんでした。
吉田松陰は幕府に自首して捕まり、罪人となったのです。
吉田松陰の死因・最期
吉田松陰は、安政6年10月27日(1859年11月21日)、29歳という若さで亡くなりました。
安政の大獄により死刑となり、10月27日の朝、伝馬町牢屋敷に送られた吉田松陰は、斬首刑で首を落とされました。
首を切った山田浅右衛門は、吉田松陰について次のように述べています。
「悠々として歩き運んできて、役人に頭を下げ『ご苦労さまです』と言って堂々と座った。その姿に、役人は感心した」と。
吉田松陰は処刑当日、一句歌を詠みました。
「此程(これ)に思定(おもいさだ)めし出立(いでたち)を けふきく古曽(こそ)嬉しかりける」。
「死ぬことを覚悟していたが、その日がやっときて嬉しい」という意味が込められています。
国のために尽くし、志を果たすために生きてきたといっても過言ではないでしょう。
これから斬首刑を受ける身であっても、最後まで志を貫き通した吉田松陰は、死刑になったことですら喜びを感じていたのかもしれません。
【この記事の要約】
- 吉田松陰のお墓は山口県と東京都の2か所にある
- ペリー来航時に黒船に乗り込むもアメリカへ行けず罪人となる
- 安政6年10月27日(1859年11月21日)に29歳の若さで斬首刑により首を落とした
- 吉田松陰は最後まで志を貫き日本のために尽くした歴史に残る人物である