吉田茂のお墓はどこ?
所在地 | 久保山墓地 |
住所 | 神奈川県横浜市西区元久保町3-24 |
吉田茂のお墓は、神奈川県横浜市にある久保山墓地にあります。
遺骨は当初、東京都港区にある青山霊園に埋葬されましたが、2011年、横浜市が運営する久保山墓地に改葬されました。
吉田茂ってどんな人?
出身地 | 東京府神田区(現・東京都千代田区) |
生年月日 | 1878年9月22日 |
命日 | 1967年10月20日 |
享年 | 89歳 |
戒名 | 叡光院殿徹誉明徳素匯大居士 |
吉田茂は、戦後の日本を牽引した首相として知られています。
東京帝国大学(現・東京大学)を卒業後、外交官として中国やヨーロッパに駐在。
イタリアやイギリスでは大使を務めました。
第二次世界大戦が終戦した1945年、吉田茂は2つの内閣で外務大臣に就任。
翌1946年に日本自由党の総裁となり、内閣総理大臣に就きます。
在任期間は通算7年2ヶ月。
日本において5回も内閣総理大臣に任命されたのは、吉田茂だけです。
吉田茂は新しい憲法を制定し、サンフランシスコ平和条約、日米安全保障条約に調印しました。
さらに、現在の自衛隊となる警察予備隊を創設するなど、戦後の日本の礎を構築。
自身が持つ強い統率力を活かし、優れた外交政策や経済戦略を打ち出しました。
その功績から、戦後の混乱期におけるカリスマ首相として現在も語り継がれています。
吉田茂の死因・最期
吉田茂は1967年10月20日、神奈川県大磯町の自宅で89歳で亡くなりました。
死去の前日、自宅で吉田茂は「富士山が見たい」と呟きます。
三女の和子が父を椅子に座らせると、一日中、快晴の富士山を眺めていたそうです。
そしてこの「富士山が見たい」という印象的な言葉が、記録に残る最期の言葉でした。
吉田茂は翌日の正午頃、心筋梗塞で亡くなりました。
あまりに突然のことだったので、医師と看護婦たちしか居合わなかったといいます。
身内は一人もそばにおらず、臨終の言葉すらありませんでしたが、穏やかな表情で逝去したということです。
吉田茂の葬儀
1967年10月23日、東京都文京区にある東京カテドラル聖マリア大聖堂で吉田茂の密葬が行われました。
東京カテドラルは、1941年に吉田茂の妻・雪子の葬儀が行われた思い出の地です。
10月31日、戦後初となる「国葬」を日本武道館で実施。
官公庁や国公立の学校が半休になり、公営競技も中止となりました。
テレビ各局は、国葬が実施される時間帯に派手な番組やCMの放送を行うことはふさわしく
ないと判断し、番組編成を大幅に変更。
国葬の日はテレビで特別追悼番組が放送され、国中で吉田茂を偲びました。
- 吉田茂のお墓は、神奈川県横浜市の久保山墓地にある
- 戦後を代表するカリスマ首相として知られ、新憲法の制定や、サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約を調印した
- 妻と同じ教会で密葬された後、戦後初の国葬が行われた