細川ガラシャのお墓はどこ?
所在地 | 崇禅寺 |
住所 | 大阪府大阪市東淀川区東中島5丁目27-44 |
細川ガラシャのお墓は、大阪府大阪市東淀川区にある「崇禅寺」にあります。
崇禅寺は奈良時代の天平年間(724~748年)に建立された細川家の菩提寺です。
細川ガラシャの夫である細川忠興がガラシャの遺骨を納めた場所として墓が建てられました。
崇禅寺の他にも、京都大徳寺塔頭・高桐院や、肥後熊本の泰勝寺など複数箇所にガラシャの墓は存在します。
その中で宣教師によって大阪府堺市のキリシタン墓地にも遺骨が納められましたが、後に徳川によって破壊されています。
細川ガラシャってどんな人?
出身地 | 越前国 |
生年月日 | 永禄6年(1563年) |
命日 | 慶長5年(1600年)7月17日 |
享年 | 37歳 |
戒名 | 秀林院殿華屋宗玉大姉(法諡) |
細川ガラシャは、明智光秀の三女で細川忠興の妻として戦国時代から安土桃山時代を生きました。
実名は「明智たま(たまこ)」と言い、元々は禅宗を信仰していましたがカトリックの話を聞き、徐々に心を惹かれていきます。
監視がついていたことで教会に行くことは一度しか出来ませんでしたが、密かに教会の本を読むことで信仰を深めていきます。
その後、豊臣秀吉がバテレン追放令を出したことを機に洗礼を受け、1857年に「ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意)」の洗礼名を受けました。
夫の忠興に棄教を訴えられても聞かず、決して信仰を曲げなかったなど信念を持った強く美しい女性として語られています。
細川ガラシャの死因・最期
細川ガラシャは慶長5年7月17日、大阪玉造の細川屋敷にて37歳で亡くなりました。
関ヶ原の戦いの直前、夫・忠興が徳川に従い上杉征伐のために屋敷を離れた際にその最期は訪れました。
西軍の石田三成が細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしましたが、ガラシャはこれを拒絶します。
その翌日、石田三成の軍勢に屋敷を囲まれ、自らの死を決意します。
キリスト教では自殺は禁じられているため、家老・小笠原秀清がガラシャの胸を突き、介錯しました。
その後、遺体を残さぬように屋敷に爆薬を仕掛け、屋敷に残った全員で自害するという壮絶な最期でガラシャはその一生を終えます。
死亡後、焼け跡を訪れた神父がガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬られました。
忠興はガラシャが亡くなったことに心を痛め、慶長6年に教会葬をしました。
後に遺骨を細川家の菩提寺である大阪の崇禅寺に納め、ガラシャの墓が建てられます。
ガラシャは辞世の句として「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」と詠みました
「散るべきときに散るからこそ花も人も美しい」という意味で、ガラシャが死ぬ最期まで生を全うした気高い女性であることが分かります。
- 細川ガラシャのお墓は大阪府大阪市東淀川区の「崇禅寺」にある
- 明智光秀の娘で本名は「細川たま(たまこ)」だが、洗礼を受けて「細川ガラシャ」となる
- 石田三成に屋敷を囲まれたことで死を決意し、慶長5年に37歳で介錯により亡くなる
- 亡くなった後、細川屋敷からガラシャの骨が拾われ慶長6年に教会葬が執り行われた