伊藤博文のお墓はどこ?
所在地 | 伊藤家墓所 |
住所 | 東京都品川区西大井6-10-18 |
伊藤博文の墓は、東京都品川区西大井六丁目の「伊藤家墓所」にあります。
非公開になっていますが、毎年11月に行われる文化財ウィークにだけ、見学が可能です。
アクセスは、JR西大井駅から徒歩3分。
鳥居のある神式の墓で、大小2つの円墳が並んでいて、大きいほうに伊藤本人、小さいほうに梅子夫人が埋葬されているとのこと。
また没後100年にあたる2009年には、「墓前祭」が開催されました。
伊藤は、日本の近代化を推し進めた人物として、今も多くの人々に親しまれています。
伊藤博文ってどんな人?
出身地 | 山口県光市 |
生年月日 | 1841年10月16日 |
命日 | 1909年10月26日 |
享年 | 68歳 |
戒名 | 文忠院殿博誉古林春畝大居士 |
明治時代の日本の政治家である伊藤博文は、初代内閣総理大臣として近代立憲主義の基礎を築いた重要な人物として知られています。
もともとは百姓の家の生まれでしたが、のちに下級武士となり、吉田松陰の松下村塾で学びました。
その後、秘密裏にイギリスへと留学したことがきっかけとなり、開国論者になったのです。
明治維新後には、明治政府の重要なポストを歴任し、明治4年(1871年)には岩倉使節団の一員として欧米を視察して、日本の近代化に必要な知見を得ます。
帰国後も政府の中心人物として活躍し、明治18年(1885年)に初代内閣総理大臣に就任した伊藤。
その後も5代、7代、10代と、4度にわたり内閣総理大臣を務めました。
第一次内閣では、明治憲法の起草に深く関わり、明治22年(1889年)に日本初の近代憲法である明治憲法を制定します。
第二次内閣では、日清戦争の講和条約である下関条約の起草や調印に関わりました。
さらに伊藤は、政党政治の必要性を説き、立憲政友会を結党して、第四次内閣で政友会のメンバーを多数起用。
それが受け入れられず、最終的には総辞職することになりはしましたが、政党政治の先駆けとしても名を残したといっていいでしょう。
伊藤博文の死因・最期
伊藤博文は暗殺によって、政治家としての人生に終止符を打ちました。
明治38年(1905年)初代韓国統監についた伊藤は、韓国の保護国化と近代化に着手し、韓国の主権を制限する日韓協約の締結にも関わりました。
韓国民族運動が激しくなった要因の一つに、この日韓協約の締結があります。
伊藤は必ずしも併合を望んでいたわけではありませんが、韓国統監という役職により、真っ向から批判を受ける立場になってしまいました。
そういったことが尾を引いて、すでに韓国統監を辞職していたにもかかわらず、韓国の民族活動家である安重根によって、ハルビン駅で暗殺されたのです。
明治42年(1909年)10月26日のことでした。
ハルビン駅のプラットホームで、閲兵儀式を見た直後、銃弾3発を受けた伊藤は、「三発貰った、誰だ」と叫んだといわれています。
ただちに安重根や協力者たちは取り押さえられ、明治43年(1910年)2月14日に、安は死刑、他の者には懲役刑が科せられました。
ただ伊藤の暗殺には諸説あり、併合強硬派による陰謀ではないかという話もあります。
暗殺から30年後、当時の首席随行員だった人物が、「伊藤の体に残っていた銃弾は、安重根が使ったとされるブローニング7連発拳銃のものと一致しなかった」と証言しているのです。
古今東西を問わず、暗殺事件にはきな臭い話がつきものなのかもしれません。
伊藤博文の葬儀
暗殺された翌日には、伊藤の悲報が日本の新聞で大々的に報じられ、すぐさま国葬を執り行うことが決まったといいます。
本来国葬は、功績だけでなく、身分が高い人が対象となっていましたから、それほど身分の高くない伊藤を国葬で見送るというのは異例のことでした。
また多くの会葬者が集まると予想されたため、日比谷公園が会場となったほか、洋装でないと参列できず、羽織袴姿で訪れた者は入場を拒否されたという逸話も残っています。
日比谷公園の会場に葬列が到着したのは午前10時過ぎで、午後0時過ぎまで続いたとのこと。
その後、大井町の墓地に運ばれ、埋葬式が行われました。
- 伊藤博文の墓は、東京都品川区西大井六丁目の「伊藤家墓所」にある
- 初代内閣総理大臣であり、日本初の近代憲法である明治憲法に関わった立憲政治の父
- 立憲政友会を結党し、政党政治の先駆けとしても名を馳せた
- 明治42年(1909年)10月26日、韓国の民族活動家・安重根に暗殺され、その生涯を閉じた