平賀源内のお墓はどこ?場所・住所・行き方を紹介

平賀源内 墓

江戸時代の天才と謳われた平賀源内は、エレキテルの復元や鉱床の発見など、さまざまな功績を残した人物です。

そんな平賀源内は、どこで生まれ、どんな晩年を迎えたのでしょうか。

この記事では、平賀源内のお墓の場所や死因、人物像などを解説します。

平賀源内のお墓はどこ?

所在地旧総泉寺
住所東京都台東区橋場2-22-2

平賀源内の墓は、東京の浅草橋場にあった総泉寺につくられ、寺が板橋に移転した後もその場に残されています。

もともと、平賀源内の墓には戒名と没年月日が記されていたとされています。

これは19世紀前半までに成立していた伝記「鶏渓遺事」によるもので、その後19世紀前半に成立した「埋木花」によると、彫られているものは戒名のみと記されていました。

さらに、1891年頃には「平賀源内墓」「安永八己亥年」「十二月十八日」の文字が彫られていることが確認されています。

幾度かの改変がおこなわれた平賀源内の墓ですが、1929年に東京都の史跡に仮指定され、その後、1943年昭和18年には正式に、国の史跡に指定されました。

ちなみに、平賀源内の故郷であるさぬき市志度の自性院にも墓が存在します。

平賀源内ってどんな人?

出身地讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)
生年月日享保13年(1728年)※月日不明
命日安永8年12月18日(1780年1月24日)
享年52歳
戒名智見霊雄

現在の香川県さぬき市志度の白石家に誕生した平賀源内は、江戸時代の天才と呼ばれる蘭学者です。

子供の頃から才能豊かだった平賀源内は、掛け軸に細工を施したからくり「お神酒天神」を作ったことが評判を呼び、13歳から藩医のもとで本草学や儒学を学び始めます。

その後、1752年頃から長崎へ遊学に出向き、本草学以外にもオランダ語、医学、油絵などさまざまな知識を学びました。

その後、父から継いだ藩の蔵番を辞して、大阪や京都、東京でさまざまな技術を習得していきます。

伊豆の鉱床を発見する、江戸で「東都薬品会」を開催するなどさまざまな功績を残した平賀源内ですが、やはり最も有名な功績は静電気発生機「エレキテル」の復元でしょう。

また、人形浄瑠璃の作品を数多く作ったり、源内焼という焼き物を作ったりするなど、芸術面でも大きな活躍を残しています。

平賀源内は生涯を通して幅広い知識や技術を習得し、日本の技術進化に大きな影響を与えた人物といえます。

平賀源内の死因・最期

平賀源内の死因は破傷風といわれています。

1779年に大名屋敷の修理を請け負った平賀源内は酒に酔い、大工の棟梁2名に「修理計画書」を盗まれたと勘違いします。

そして、その棟梁2名を殺傷したことで11月21日に投獄され、同年の12月18日に獄中で死亡しました。

ただし、晩年には諸説あり、棟梁を殺傷した後に逃げ延びて田沼意次、あるいは高松藩の庇護下のもとで天寿を全うしたとの話もあります。

詳細は不明なため、具体的な死因や最期は特定されていません。

  • 平賀源内の墓は東京浅草の旧総泉寺にある
  • 平賀源内はエレキテルの復元に成功した江戸時代の天才
  • 大工の棟梁2名を殺傷した罪で投獄され、破傷風で獄死したといわれているが諸説あり

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