一条天皇のお墓はどこ?どんな最期を迎えた?辞世の句と共に解説

一条天皇 墓

一条天皇のお墓はどこ?

所在地 京都府京都市右京区龍安寺朱山 龍安寺内
御陵名 圓融寺北陵(えんゆうじのきたのみささぎ)
住所 京都府京都市右京区 龍安寺御陵ノ下町13

一条天皇のお墓は、京都市右京区の龍安寺の裏山にある「朱山七陵」のひとつ「圓融寺北陵」です。

この場所には、彼の父・円融天皇や他の皇族の陵墓も含まれており、皇族の墓地が点在するエリアとしても知られています。

一条天皇の遺骨は一度火葬された後、しばらくの間、東山の圓成寺に安置されていました。

その後、一条天皇の希望通り、父の円融天皇の近くに埋葬されましたが、亡くなってから9年後のことでした。

この遅延は当時の信仰に基づき、天の神「大将軍」が凶方位にいるため、三年間その方向に動かせないと考えられていたためです。

一条天皇ってどんな人?

生年月日 980年7月15日(天元3年6月1日)
崩御 1011年7月25日(寛弘8年6月22日)
享年 32歳

一条天皇は、平安時代中期にわずか7歳で即位した第66代天皇です。

彼の治世は、平安文化が最も栄えた時期の一つであり、後世に伝わる『枕草子』や『源氏物語』が書かれた時代としても有名となっています。

一条天皇は藤原氏との深い結びつきを持つ天皇でした。

彼の即位には外祖父の藤原兼家の策略があったとされており、母親は藤原氏の藤原詮子。

彼の后である藤原定子や藤原彰子も藤原家の強い影響を受けた人物です。

定子との間には深い愛情が育まれ、その関係は「純愛」とも称されます。

一条天皇は文学や芸術にも通じており、笛の名手として知られるほか、漢詩や漢文に精通していた天皇でもありました。

彼の時代、摂関政治が力を持ち、とくに藤原道長が台頭していく時期でもありましたが、一条天皇は文芸に心を寄せながら政治を執り行った人物です。

一条天皇はどのような最期を迎えた?

1011年6月22日、一条天皇は病に倒れ32歳という若さで亡くなりました。

死を迎える前、彼は自身の長男である敦康親王を皇太子にしようとしましたが、藤原道長の圧力によりそれは叶いませんでした。

そのため、道長の娘「藤原彰子」との間に生まれた「敦成親王(後の後一条天皇)」が次の皇位を継ぐこととなったのです。

一条天皇は、自身の望んだ親政を完全に実現することなく、道長の影響下で病死しました。

彼の最期は、愛妻・定子の死後、失意のうちに迎えたもので、政治的にも個人的にも困難な状況にあったとされています。

一条天皇は火葬ではなく土葬を望んでいたが叶わなかった

一条天皇は生前、火葬ではなく土葬を望んでいました。

とくに、父である円融天皇の隣に土葬されることを希望していたのです。

しかしその望みは叶わず、死後、藤原道長の決定により一条天皇は火葬されました。

火葬された遺骨は一度圓成寺に安置されましたが、最終的に三年後ようやく円融天皇の近くに埋葬されたのです。

火葬が行われた背景には、道長の判断ミスがあったと言われています。

道長は一条天皇が土葬を希望していたことを一度忘れ、火葬を決めてしまったとされていますが、最終的に道長は天皇の意志を思い出し三年後に埋葬する形を取りました。

一条天皇が残した最期の歌(辞世の句)

一条天皇が残した辞世の句には、彼の人生に対する深い思いと愛情が込められています。

彼は亡くなる直前に次のような歌を詠みました

露の身の 風の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき
(この世に君を残して去ることが何とも悲しい)

この歌は彼の儚い人生を表し、とくに愛妻・定子への深い愛情が込められていると言われています。

死を前にしても彼の心は亡き妻に寄り添い、彼女をこの世に残していく悲しみを詠んだものです。

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