およそ260年という長い期間で江戸幕府を治めてきた徳川家。
徳川家康に始まり、15世代もの将軍たちが日本の政権を担ってきました。
そんな徳川将軍の中でも「幻の11代将軍」と呼ばれた人物がいたのをご存じでしょうか。
この記事では、幻の11代将軍・徳川家基の最期や死因について解説します。
徳川家基の死因や最期は?
徳川家基が死去したのは、1779年(安永8年)の出来事。
江戸幕府10代将軍・徳川家治の長男として誕生した彼は、後の11代将軍として期待されていました。
しかし、鷹狩りの帰りに立ち寄った品川にある東大寺で急な腹痛に襲われます。
医師による手厚い治療の甲斐もなく、3日後の安永8年2月24日に享年18歳という若さで息を引き取りました。
彼は常日頃から元気に過ごしていたため、突然の死は様々な憶測を呼んでいます。
家基が将軍就任によって失脚を恐れた老中・田沼意次による毒殺ではないかという説もありますが、明確な原因は現在でも分かっていません。
父・家治は家基の後に子を成しておらず、徳川宗家の歴史の中で唯一「家」の通字を授けられながらも将軍位に就けませんでした。
そのため、家治の血筋は断絶することとなり、家基は「幻の11代将軍」と呼ばれるようになりました。
「幻の11代将軍」徳川家基はどんな人生を歩んだ人物?
生誕 | 宝暦12年10月25日(1762年12月10日) |
命日 | 安永8年2月24日(1779年4月10日) |
享年 | 18歳 |
戒名 | 孝恭院殿贈正二位内大臣尊儀 |
享年18歳という若さでこの世から去った徳川家基。
老中の田沼意次の推薦で側室となった母・お知保の方(蓮光院)と、10代将軍であった父・家治の間に生まれ、幼名「竹千代(たけちよ)」と称されます。
大奥女中・広橋の願いもあり誕生してすぐに、男子のいなかった御台所・倫子の養子となっています。
幼い頃から賢く文武両道であった彼は、成長するにつれ政治にも関心を持つようになりました。
田沼意次の政治を批判したり、父・家治に対してもはっきり意見をしたりと自分の意思を貫く人物だったようです。
徳川家基のお墓はどこ?
徳川家基が葬られているのは、東京都台東区にある「東叡山寛永寺(かんえいじ)円頓院」。
彼に代わり第11代将軍の位についた徳川家斉は、晩年になっても彼の命日には自ら墓所に参詣、もしくは若年寄を代参させています。
家基と家斉は血縁関係が遠く、先代将軍の子孫に対してここまで敬意を払うのは異例のことです。
さらに、家基は没後、臣下に与えられる位階の最高位である正一位太政大臣が贈られ、母・蓮光院には従三位が追贈されています。
徳川家基のお墓がある寛永寺とは?
徳川家基のお墓がある寛永寺は、寛永2年(1625年)に、慈眼大師天海大僧正(じげんだいしてんかいだいそうじょう)によって創建されました。
上野の台地に創建されたのは、江戸城の鬼門(東北)にあたることを憂慮したため。
京の都の鬼門を守る比叡山にならい、東の比叡山という意味で、山号を「東叡山」としています。
2025年に創建400周年を迎える非常に歴史の深い寺院で、延宝8年(1680年)に德川家綱が葬られてから、寛永寺が德川家の菩提寺を兼ねるようになりました。