春日局の死因とは?
春日局の死因は不明ですが、病死ではないかという予測もあります。
徳川家光が幼少期に疱瘡を患った際、春日局が神に治癒を祈願した際に断薬しました。
自ら病を患った際も断薬を続けていたため、それを知っていた家光自身が薬を飲ませましたが、亡くなってしまいます。
他にも服薬したふりをして、そっと袖下に吐いたという説もあります。
このことから、春日局の死因は病死であった可能性が高いです。
東京都文京区にある、家光から賜った屋敷で最期を迎えたのです。
春日局のお墓はどこ?
春日局のお墓は、東京都文京区湯島の「麟祥院」にあります。
墓石は珍しい形をしており、中心に穴が開いているため、一目で春日の局のお墓だとわかるでしょう。
この穴は「自分の死後も徳川の世をしっかり見守れるように」という想いから作られたそうです。
春日局のお墓はどこ?場所・住所・行き方を紹介春日局はどんな人生を歩んだ人物?
出身地 | 兵庫県丹波市春日町黒井(丹波国) |
生年月日 | 1579年(天正7年) |
命日 | 1643年10月26日( 寛永20年9月14日) |
享年 | 63~64歳 |
戒名 | 麟祥院殿仁淵了義尼大姉 |
春日局はその功績から、現代では大河ドラマの主要人物として扱われることも。
以下で春日局の生涯について詳しく解説します。
明智光秀の家臣 斎藤利三の娘として誕生
春日局は、明け光秀の家臣である斎藤利三と、稲葉良通の娘である安の娘として誕生しました。
1579年生まれで、名を福と言います。
幼少期は黒井城主の娘として何不自由ない生活を送っていましたが、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた父の斎藤利三が処刑されました。
その後、母方の実家である稲葉家に身を寄せ、伯父である稲葉重通の幼女となりました。
さらにその後は小早川秀秋の家臣である稲葉正成と結婚し、子供をもうけます。
後の三代将軍・徳川家光の乳母となる
小早川秀秋と対立したことで職を失った稲葉正成。
この頃、春日局は後の徳川家光である竹千代の乳母募集の看板を見つけます。
自身も子供をもうけていた春日局は、子育てに自信を持っていたことから応募したのです。
そして1604年、竹千代の乳母に任命されます。
将軍様御局として大奥の最高権力者へ
徳川の名を継ぐのは竹千代か、次男の国松か、といった争いがありながら、春日局は竹千代を立派に育て上げました。
竹千代は家光に名前を変え、江戸幕府第3代将軍に就任。
春日局はその功績が称えられ、大奥の最高権力者として徳川家の女性陣を束ねるようになります。
“従二位 春日局”の称号を賜り日本女性の頂点へ
春日局は、育ての親である三条西実の義理の妹となり、それまで御所に昇殿するにふさわしくなかった身分を一新します。
その後、三条西藤原福子として、後水尾天皇・中宮和子に拝謁。
“従二位 春日局”の称号を賜り、これ以降「春日局」と名乗るようになりました。
実質的に日本女性の頂点へとのし上がったのです。