藤原道長は平安時代中期の政治家。
大きな権力を持ち、摂関政治を確立した人物です。
この記事では、藤原道長の死因について解説します。
藤原道長の死因は糖尿病による多臓器不全
藤原道長の死因は、糖尿病による多臓器不全だと考えられています。
晩年は背中の腫れ物が悪化し、激痛に苦しんでいたようです。
これこそが糖尿病の症状と考えられており、壮絶な最期を迎えることになりました。
藤原道長の最期は壮絶だった
藤原道長の最期は病状が悪化し、背中に腫れ物ができて激痛に苦しむ他に、失禁や下痢も止まらなかったといいます。
そのせいで寝床は汚れており、見舞いに来た人も近づけなかったようです。
藤原道長のお墓はどこ?
藤原道長のお墓は、京都府宇治市の「宇治陵」にあるとされています。
宇治陵には皇族の墓が集中しており、その中に藤原道長のお墓も含まれていると考えて参拝する人も多いようです。
藤原道長はどんな人生を歩んだ人物?
生誕 | 966年 |
命日 | 万寿4年12月4日(1028年1月3日) |
享年 | 62歳 |
藤原道長は966年に生を授かりました。
「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」という和歌を読んだことでも有名です。
さまざまな戦略を巡らせ、平安時代中期の最高権力者へとのし上がったのです。
藤原兼家の五男として誕生
藤原道長は、藤原兼家の五男として誕生します。
五男だったこともあり、将来を期待されることもなかったためか、幼少期の記録はほとんどありません。
しかし、成長した藤原道長は、父である兼家と同じく政治家の道を歩みだします。
兄が次々に亡くなり「左大臣」へと大出世
長兄も次兄も政治家として活躍していましたが、流行り病にかかり次々に死去。
その結果、後継者の権力争いも繰り広げられましたが、藤原道長は見事左大臣へと大出世を遂げます。
娘の彰子を中宮にして史上初の一帝二后を決行
大出世した藤原道長でしたが、彼の目的は天皇の外戚となることでした。
そのため、わずか12歳の娘、彰子を入内させます。
当時の天皇であった一条天皇は定子を寵愛していましたが、道長は彰子を立后させ、定子を「皇后」、彰子を「中宮」としました。
そうして史上初の一帝二后を決行したのです。
三代の天皇の外祖父になり絶大な権力を得た
その後も自分の娘を次々と天皇の后にし、最終的には三代にもわたる天皇の外祖父となりました。
その結果絶大な権力を手にすることとなり、摂関政治を確立したのです。