献体は、死後に遺体を解剖学の教材として提供することですが、有名人の中にも献体をした人は意外と大勢います。
動機はそれぞれですが、献体は諸条件をクリアする必要があり、誰でも簡単にできるわけではありません。
この記事では、献体の解説や日本で初めて献体を行った人物、献体をした有名人を紹介しています。
献体とは?分かりやすく解説
献体とは、医学や歯学の発展の目的で、学校での解剖学の実習やサージカルトレーニング(手術の練習)のために、遺体を提供することです。
献体をするには、本人が生存しているうちに献体登録をする必要があり、2親等以内家族の同意がなければ行われません。
また、献体登録しているかつ臓器提供のドナーも登録をしている場合は、どちらか一方のみ実行されることになり、献体ができない可能性もあります。
献体をする遺体の搬送や火葬の費用は大学が負担しますが、献体自体は無償であり、献体によって入院の便宜が図られるような特典も発生しません。
なお献体をすると、遺骨が遺族の元に戻るのに、2年程度の期間を要する場合もあると言われています。
日本で初めて献体をしたのは遊女の美幾
日本で初めて献体が行われたのは1869年(明治2年)で、献体をしたのは遊女だった美幾という女性です。
遊郭で遊女として働いていた美幾は梅毒に罹患したため、医学校の黴毒院(ばいどくいん)に入院しました。
しかし重症だったことから、医師から献体を求められた美幾は、献体に応じることを遺書に記しました。
そして、父母と兄が連署した遺書を東京都に提出した後に、亡くなったのです。
亡くなった翌日には、日本初となる病死体解剖が実施されました。
美幾の墓石の裏面には「わが国病屍の始めその志を嘉賞する」と、当時の医学校教官による美幾の志を称えた銘が刻まれています。
献体をした有名人10人
現在の日本では献体の希望者が多く、遺体の確保は難しくないと言われていますが、かつては遺族の考え方の違いなどがあり、献体が不足した時期もありました。
引き取り手のない遺体や死刑囚の遺体が、解剖の実験に使われたこともあったそうです。
その一方、有名人でも積極的に献体をした人も珍しくありません。
次は、献体をした有名人を紹介します。
夏目漱石
「坊っちゃん」「吾輩は猫である」などで有名な作家、夏目漱石は、鏡子夫人が献体を希望したため、東京帝国大学医科大学に献体されました。
中年以降は胃潰瘍、神経衰弱、糖尿病など、いろいろな病気に苦しめられた漱石は、1916年に49歳10ヶ月の時、腹腔内出血により亡くなりました。
献体された遺体は、亡くなった翌日に病理学者の長與又郎によって解剖され、摘出した脳と胃は東京大学医学部に寄贈され、現在も貴重な資料として保管されています。
大辻伺郎さん
映画会社「大映」で活躍した俳優、大辻伺郎さんは、脇役や準主役が多いものの、その存在感から「怪優」と呼ばれたほどの名俳優でした。
満38歳だった1973年に、ホテルの一室で首吊自殺をしましたが、遺書などはなく死因は明らかにされていません。
本人の遺志により、遺体は順天堂大学医学部附属順天堂医院に献体され、特徴的な大きな目はアイバンクに献眼されました。
献眼とは、目の不自由な方が角膜移植を行って、光を取り戻せるようにするため、死後に眼球を提供することです。
田谷力三さん
大正から昭和にかけて浅草オペラの花形スターとして活躍した、オペラ歌手の田谷力三さんは、1988年に心筋梗塞及び心不全のため89歳で亡くなりました。
晩年も毎日発声練習を欠かさず、人に見られる仕事だからと、足腰を鍛えるためにマンションの6階まで、階段を往復していたと言われています。
死後は献体され解剖されましたが、声帯には年齢による衰えが全く見られず、鍛え抜かれた若々しい状態のままだったため、解剖に携わった医学関係者を驚かせました。
足立篤郎さん
静岡県生まれの政治家で、第一次田中角栄内閣では科学技術庁長官、第二次田中角栄内閣で農林大臣などを歴任した足立篤郎さんは、1988年に78歳で亡くなりました。
本人の遺志によって、遺体は医学の発展を目的とした献体が行われました。
大柄な体格から「トノサマガエル」のあだ名があり、おおらかな人柄で人々から愛されていました。
足立篤郎さんは、死没日をもって位階(かつての律令制度に由来する位)の1つである正三位を授かっています。
南道郎さん
南道郎さんは、人気漫才師としてデビューした後、特徴的な声を活かして俳優に転向し、味のある悪役として活躍した俳優です。
2007年に81歳で腹部大動脈瘤破裂のため亡くなりましたが、本人の遺志により遺体は白菊会に送還されました。
白菊会とは、遺族が故人の遺志に従って献体した遺体を、大学の医学部や歯学部などに提供する「篤志献体」の組織で、大学の医学部や歯学部、自治体に支部組織を持っています。
はやし家林蔵さん
地味な芸風ながら、特技の小唄を披露するなどの芸風が人気の落語家、はやし家林蔵さんは脳梗塞で倒れた後、2010年に心不全のため67歳で亡くなりました。
師匠の林家彦六さんや、兄弟子の四代目三遊亭市馬さんが献体をしたのに従って、はやし家林蔵さんも献体しています。
師匠である林家彦六さんは、生前から白菊会に登録しており、遺志により葬儀は行わないで東京医科歯科大学に献体し、遺骨が遺族の元に戻ったのは一周忌でした。
鶴見五郎さん
1971年のデビューから2013年の引退試合まで、悪役レスラーとして活躍した鶴見五郎さん(リングネーム)は、2022年に敗血症、低血圧のため73歳で亡くなりました。
本人の遺志により、葬儀を執り行うことなく献体されたとのことです。
海外でプロレスの修行をして、1980年代に日本人初のヒール軍団として活躍するなど、伝説に残るプロレスラーでしたが、晩年は鬱滞性潰瘍などの病気に苦しめられました。
穂積隆信さん
俳優や声優として活躍し、実の娘との確執を描いたノンフィクション「積木くずし」シリーズで知られる穂積隆信さんは、2018年に87歳で胆嚢がんのため亡くなりました。
遺体は本人の生前の希望により、献体されました。
「積木くずし」のドラマ化、映画化で莫大な印税を手にしたものの、晩年は多額の負債を抱え苦しんだと言われています。
また「積木くずし」のモデルとなった娘は、多臓器不全のため35歳の時に自宅で亡くなりました。
南部虎弾さん
ダチョウ倶楽部の初代リーダーで、体を張ったお笑いグループ、電撃ネットワークのメンバーだった南部虎弾さんは、2024年の1月に脳卒中で亡くなりました。
本人は、お世話になった医師への恩返しの意味で、臓器提供を希望していましたが、糖尿病のため受け入れられなかったのです。
その代わりに献体をすることになり、解剖後に遺体は斎場に安置されました。
晩年は糖尿病や合併症に苦しみ、心臓バイパス手術を行ったり、奥さんをドナーにして腎臓移植手術を行ったりと、闘病生活を繰り返していたそうです。
細川俊之さん
甘い低音ボイスの俳優として舞台や映画で活躍し、歌手やディスクジョッキーとしても人気のあった細川俊之さんは、死後の献体が話題になりました。
2011年、70歳だった細川さんは自宅で転倒し、意識不明のまま病院に搬送されて、急性硬膜下血腫でそのまま亡くなったのです。
生前に本人が献体を希望しており、遺族の同意も得られたため、通夜や葬儀を行わずに遺体は献体されました。
遺体が荼毘に付されたのは死後1年8ヶ月後で、遺骨として遺族の元に戻り納骨されたそうです。