戦国時代の武将といえば勇猛さや知略が注目されがちですが、実は現代でも通用するほどのイケメンも多く存在しました。
彼らはその美貌で人々を魅了し、時には歴史に影響を与えたことさえあったのです。
今回は、そんな「イケメン戦国武将」たちを紹介します!
あの家康を堕としたイケメン武将「井伊直政」
井伊直政は、かの徳川家康さえも虜にしたイケメン武将として有名です。
特に男色を好んだわけではなかった家康さえも墜としたというのですから、よほどパーフェクトな美男子だったのでしょう。
男女問わずモテたという逸話がある直政。
容姿端麗なのはもちろんのこと、心優しい男性だったとされる史料が残っているのだとか。
顔も性格もいいとなると、好かれるのも当然という気がしますね。
直政は、いわゆる「人たらし」だったのかもしれません。
熱狂的男色愛好家から寵愛を受けたイケメン武将「小早川隆景」
「毛利家三本の矢」でよく知られる小早川隆景。
熱狂的な男色愛好家として知られている大内義隆は、彼にゾッコンだったといわれています。
隆景自身も女性を寄せ付けないタイプだったらしく、側室もおらず、子ももうけなかったのだとか。
その美貌によって義隆の寵愛を受けた隆景とは、どれほどイケメンだったのか気になるところです。
一族みな引きだったと言われるイケメン武将「織田信長」
織田信長といえば「鳴かぬなら殺してしまえ時鳥」が有名ですが、実は彼もイケメン武将だったといわれています。
信長だけではなく、織田氏一族が美形だったそう。
例えば、信長の弟の秀孝は美形だったという史料が残っていますし、かの有名な妹のお市の方も戦国時代きっての美女だったというのが通説です。
信長自身の特徴として言い伝えられている中に「髭が薄くて、華奢な体型で、甲高い声をしていた」という記述があります。
なんとなく細面のイケメンを想像してしまう描写だと思いませんか?
織田信長が寵愛した美少年武将「森蘭丸」
森蘭丸といえば、美少年の代名詞といっても過言ではないでしょう。
言わずと知れた織田信長が愛してやまなかったと伝えられる美少年武将ですね。
歴史通の方は「え、色小姓じゃないの?」と思ったのではないでしょうか。
確かに本能寺の変の際に小姓ではあったものの、蘭丸が色小姓であったかは明確ではありません。
元々森家は織田家に仕える一族だったため、本能寺の変の際には蘭丸のほか2人の弟も小姓として仕えていたのだそうです。
少し時代は遡りますが、跡目を継いだ兄の長可が武田討伐で活躍したため、蘭丸も美濃兼山と米田島をもらい、5万石の大名になったのだとか。
そんな蘭丸が、信長が寵愛した希代の美少年として名を馳せたのには理由があります。
18歳という若さで、信長と共に討死したというドラマチックな最期が後世の人々に好まれたということ。
そして、江戸時代以降、物語や浮世絵などの一種のエンターテイメントとしてバズったということ。
現代でも蘭丸を題材にした作品はあるわけですから、よく考えるとすごいことですよね。
現代でも通用しそうな高身長イケメン武将「宇喜多秀家」
宇喜多秀家は、豪姫を正室に迎えた武将です。
身長は170センチあったといわれており、現存する肖像画からもイケメンぶりがわかります。
豊臣秀吉にも気に入られていた秀家ですが、現在では父である宇喜多直家のほうが有名かもしれません。
直家は戦国時代に活躍した武将でしたが、裏切りや暗殺なども辞さないタイプの人だったそうです。
度胸もあった好青年なイケメン武将「木村重成」
木村重成は、豊臣家の重臣だった木村重玆の次男だとされる説があります。
実は父・重玆は謀反の疑いをかけられて、長男と共に切腹したのだといいます。
まだ3歳だった重成は、母と一緒に命を助けられたのだとか。
その後、母が豊臣秀頼の乳母として召し抱えられたことから、重成と秀頼は乳兄弟だったのではないかといわれています。
そんな複雑な事情を持つ重成ですが、成長するにつれてイケメンぶりを発揮していたらしく、ある人の回顧録に「背が高くて、気品があった」といった記述が残っているそう。
それだけでなく彼には度胸もあったことがわかっています。
徳川家康に対して、「御血判、少しく薄く御座候」(血判が薄いですよ)と堂々と物申したという逸話も残されているほど。
大坂夏の陣の最中、23歳という若さで散った重成ですが、その討ち取られた首を確かめた家康は感嘆の声を上げたといいます。
その理由は、重成の髪に香がたきしめられていたから。
死んだ後も見苦しくならないようにと準備していたに違いなく、普通の武士では考えも及ばない所業でした。
それを一瞬で悟った家康は、重成の死を悼んだそうです。
イケメンすぎてストーカー被害にあった武将「片倉重長」
片倉重長は、伊達政宗の腹心だった片倉景綱の息子です。
父と同じく腕が立ったことから、「鬼の小十郎」と呼ばれていたのだとか。
そんな重長ですが、容姿端麗であったことが知られています。
男色家として有名だった小早川秀秋が、ストーカーしたというエピソードが残されているほどですから、よっぽどイケメンだったのでしょうね。
姫君のように色白だったイケメン武将「長宗我部元親」
長宗我部元親の幼少期の呼び名の一つに、「姫若子」があります。
これは「姫君のように色白」というような意味があることから、彼が美少年だったことがわかります。
また無類の本好きであり、どちらかというと大人しい性質だと家臣から思われていた節もあります。
しかし、成長して戦場に出ると武将としての才能が開花して、瞬く間に四国を統一してしまったのですから驚きですよね。
人は見た目だけではわからないものです。
ちなみに元親の長男の信親も、色白で180センチと背が高く、色白の美男子だったのだとか。
親子そろってイケメンだったなんて羨ましい限りですね。
武田信玄のお気に入りイケメン武将「高坂昌信」
高坂昌信もイケメン武将として名高い人物です。
16歳で武田信玄に仕え始めた昌信ですが、たった1ヶ月ほどで奥近習にスピード出世しました。
その理由は、信玄と男色の関係にあったからだそうです。
その寵愛の深さは本物で、信玄が浮気の許しを乞うたという昌信宛の手紙が残されているほど。
昌信は、どれほどのイケメンだったのか見てみたいと思わされる武将の一人ですね。
中身までイケメンな戦国武将「山中鹿之助」
山中鹿之助は、「容姿端麗」のほかに、「異質な容姿」といった表現が史料に残されている人物。
謎に包まれているので、彼がどのような容姿だったかは定かではありません。
ただ「髭をたくわえていた」という話も伝わっているので、美少年というよりはオシャレなイケメンだった可能性が高いのではないでしょうか。
そして、鹿之助を語る上で外せないのが、「忠誠心」というキーワード。
仕えていた尼子家の再興のために最後まで手を尽くしたという逸話が残っています。
そう考えると、鹿之助のイケメンポイントは中身だったといえるのではないでしょうか。
中身が伴ってこそ本物のイケメンというのは、昔も今も同じかもしれませんね。