小野小町の死因や最期の様子は?壮絶で哀れな死に際を解説

小野小町 死因

小野小町は平安時代前期の女流歌人

女流歌人としての先駆者であり、三代の天皇に仕えていました。

この記事では、小野小町の死因について解説します。

小野小町の最期が壮絶?死因は何?

小野小町は最期の時を京都の補陀洛寺で過ごしました。

仕えていた天皇が崩御したことで宮廷を後にし、放浪の旅に出た末たどり着いた寺です。

死後はこの地で野ざらしにされ頭蓋骨からはススキが生えていたのだとか

詳しい死因は不明ですが、美貌の歌人と呼ばれた小野小町にとって、老いて衰えていくのは壮絶な最期だと感じられたかもしれません。

小野小町の辞世の句が悲しすぎる

あわれなり わが身の果てや 浅緑 つひには野辺の霞と思へば

これは小野小町が残した辞世の句です。

「私の亡骸は浅緑になり最後は野辺の霞になってしまうのだ」という意味の言葉です。

命や肉体が儚く消えゆくさまを詠っており非常に切なさを感じさせます

小野小町はどんな晩年を過ごした?

先述した通り、小野小町は晩年を京都の補陀洛寺で過ごしています。

仕えていた天皇が崩御したのをきっかけに、全国を放浪する旅に出たのです。

かつては美しく男性から多くの声をかけられていましたが、人知れず老いて衰えていくのは耐え難いものがあったかもしれません

小野小町の墓はどこにある?

小野小町の墓は全国各地に存在します。

秋田県から京都府に至るまで、本当に全国各地に墓が存在しており、どれが本物だというようには言及できないのが実際のところです。

小野小町とはどんな人物?何をした人?

平安前期の女流歌人で世界三大美女の一人

小野小町は平安前期に女流歌人として活躍した人物。

絶世の美女だとされており、世界的に見ても世界三大美女の一人に数えられています

「六歌仙」「三十六歌仙」に名を連ねる優れた歌人だった

小野小町は、平安時代の和歌の名人とされる「六歌仙」「三十六歌仙」に名を連ねるほどの和歌の実力者でした。

当時は一般的ではなかった女性による和歌で大きな功績を残しており優れた歌人だったといえるでしょう。

多くの男性を虜にした恋多き女性

また、小野小町はその美貌により多くの男性を虜にしたとされています

彼女に恋文を送る男性が後を絶たず、まさに才色兼備の歌人だったのです。

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